伊達政宗像

 


上杉謙信像


上杉鷹山像

 

■歴代の武将が愛した小野川の湯

 小野川温泉のある米沢は、山形県の置賜地方の中心に位置しています。
 続日本記では和銅5年(712)に出羽郡付近の蝦夷平定とともに国司を置いたことが記されています。そのころから中央政府の支配下にあったことが伺えます。
●長井氏の時代
 鎌倉時代まですすみ、武士の時代になると支配者も北への足場として重要な地域の一つとなります。源頼朝の奥州藤原氏攻略に際し、功を認められた大江広元が長井庄を与えられたのが武家支配の始まりと考えられます。次男の時広が長井時広を名乗ったことから、置賜地方は長井氏の配下として歴史に登場します。長井氏の支配は190年に及び、その後の文化的基盤はこの時期に形作られました。米沢城の築造や成島八幡宮白子神社などが造られました。
●伊達氏の時代
 天授6年(1380)南奥羽(福島県桑折町)の豪族であった伊達氏の八代伊達宗遠のとき長井氏を侵略、置賜地方の支配者は伊達氏に変わりました。十五代伊達晴宗は天正17年(1548)、本拠地を西山城(福島県桑折町)から米沢城に移し南奥羽の中心的存在になりました。
 十七代伊達政宗は、米沢城で生まれ25歳まで米沢を居城とし、隣の最上氏と勢力を争いつつけましたが、天正19年(1591)豊臣秀吉により伊達家は岩出山(宮城県)に移封され、伊達氏支配は終わりました。伊達政宗はその後、独眼龍と称され東北の雄として中央幕府にも常に一目置かれる存在でした。
 伊達政宗が米沢藩だった頃、戦いで足を負傷したときに小野川の湯で治療したと伝えられています。
●蒲生氏の時代
 
伊達氏の変わりに支配したのは、蒲生氏郷でした。しかし、蒲生の治世は長く続かず、慶長3年(1598)その子秀行のとき宇都宮に移封されました。そのかわりに移封されてきたのが上杉氏です。
●上杉氏の時代
 上杉氏は米沢に移封される前は、越後の武将でした。
 もともとは藤原高藤の流れをくむ源氏の本流としての鎌倉時代からの名家であった上杉家は、室町幕府では関東管領として幕府の要職にありました。しかし、幕府の衰退とともに上杉家も没落し勢力を落として行きました。そのなかで越後の長尾家に義を持って迎えられ、ついには上杉家の名跡もゆずりました。それが、藩祖上杉謙信になります。
 連戦連勝の上杉謙信には天下を取る気持ちはさらさらなく、室町幕府の再興を願う無欲の武将でした。そのため、戦国時代が終わろうとしていた時の秀吉や徳川家康にとって気になる存在でした。
 謙信の死後、家督を相続したのは上杉景勝でした。景勝は秀吉には一目置かれ、戦功を評価され慶長3年(1597)会津に移封されました。そのとき米沢には、上杉の重臣直江兼続が配されました。秀吉の死後は五大老の一人として豊臣政権を支えました。しかし、関ヶ原の戦いで西軍に組みしたため、米沢三十万石に減封・移封されました。これが、米沢での米沢上杉氏の始まりになります。
 その後の米沢藩は、名家故の苦悩に明け暮れ、減封に対応できず財政難の連続でした。その中で、九代藩主上杉鷹山は養子として迎えられたにもかかわらず、農民の援助や殖産興業などの民主主義的思想で窮状を救い、その後の政治史に大きな足跡を残す名君として類例のない功績を残しました。後のJ.F.ケネディの目標とされるほど世界にも知れた政治家でした。
 米沢上杉藩の最後の藩主は上杉茂憲もでした。仙台藩とともに幕府軍に加わり、奥羽列藩同盟の中心として藩祖の地越後で官軍とよく戦ったものの、劣勢は変わらずついに降伏し、慶応4年(1868)藩籍奉還により上杉米沢藩は終わりました。
 上杉の時代にあって、
小野川温泉は歴代上杉藩主が最も愛した温泉として親しまれていました。
●近代の米沢
 
その後、米沢県として明治を迎え置賜県の後、明治9年山形県に合併されました。明治22年米沢市となり、現在に及んでいます。しかし、270年に及ぶ上杉家の治世は町の底深く米沢の魂として今に及んでいます。
 
小野川温泉は米沢の奥座敷として今でも自然と静かさの中に、いにしえの人々の心を伝えています。